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長盛院(南アルプス市徳永)

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写真: 長盛院(南アルプス市徳永)

写真: 長盛院(南アルプス市徳永) 写真: 長盛院(南アルプス市徳永)

長盛院(南アルプス市徳永)
金丸氏居館跡。

http://twitter.com/oftheRoundTable



mixi記事コピペ――
「土屋惣蔵墓/長盛院(南アルプス市徳永)」
2014年05月31日 11:47

14.05.29.
ただの野っ原、更地、荒地のような場所。しかしここ、金丸氏の館跡である長盛院の、広大な寺域の中だったそうだ。

●土屋昌恒──
弘治2(1556)年〜天正10年3月11日(1582年4月3日)
惣蔵は幼名。
官途名 右衛門尉。
実父 金丸虎義。養父 土屋貞綱。
室 岡部元信娘。
嫡男 忠直。養子 土屋嘉兵衛(重虎)。

虎義5男。
武田家譜代家老衆。
信玄・勝頼期の家臣。
東海道・関東方面に多く出陣している。
天正3(1575)年、長篠合戦に参陣。このとき父と兄が戦死、家督の継承となった。
天正10(1582)年、甲州征伐。
武田氏一門や家臣団の多くが離反していく中、昌恒は最後まで勝頼に付き従った。
勝頼が滝川一益隊に天目山で追いつめられた時、勝頼自尽の時間を稼ぐため、狭い崖道で織田勢を迎え撃つために片手を蔦に絡ませ転落しない様にし、獅子奮迅の戦闘を見せた。兵の多寡に敵わず討死。
このことから、後に「片手千人斬り」の異名と、忠臣の誉れを得る。

遺児である土屋忠直は徳川家康に召し出され、旗本、大名になっている。


3基中央が惣蔵昌恒。
右が金丸伊賀守光信。
左は………………ごめんなさい(´;ω;`)

史跡名が「土屋惣蔵墓」と称されているが、とんでもないことだ(゚ロ゚; 三 ;゚ロ゚)ヒイイイィィ 横を向いてみれば……(*0*;)☆ ウキャー!!

(手前から)
昌恒父 金丸筑前守虎義。
昌恒祖父 金丸若狭守虎重(虎嗣)。
光信(伊予(伊豫)にも伊勢にも見えない)。

虎義長男 金丸晴重。
虎義3男 秋山左衛門佐昌詮(まさのり)。
昌詮子 金丸助六郎昌義。

虎義次男 土屋右衛門尉昌次(昌続。武田二十四将)。
虎義4男 金丸介六郎定光。
土屋惣蔵昌恒(こちらにも…)。

秋山伯耆守晴近(源三/虎繁/信友。武田二十四将)。
(虎義7男 親久──がここにはふさわしいのではないか? 本来ではないのか?? 伯耆守晴近を名乗ったのか??? 兄 昌詮早逝のち虎繁の養子に。親久も“源三”は名乗っている)
虎義6男 土屋惣八郎昌定(昌直)。
土屋平九郎勝方。

残り2基は近代、現代の方、御子孫のようだ( ー人ー)


・金丸氏──
甲斐守護武田信重3男 武田光重が金丸を称したのに始まる。だが光重に子はなく、次代は一色藤次が継承。足利氏族。

・秋山氏──
甲斐源氏武田氏分流。加賀美遠光嫡男 光朝を祖とする。
加賀美遠光の父は源義清、または源清光。甲斐武田氏祖 武田信義の弟、または叔父。

・土屋氏――
桓武平氏良文流。坂東八平氏であった相模国中村荘司 村岡宗平の子、土屋宗遠が相模国中村荘において土屋郷司についた事に由来する。
鎌倉時代、出雲国持田荘や出雲国大東荘、河内国茨田郡伊香賀郷の地頭を任官し各地に血と名を広める。
室町時代、土屋景遠は相模国本領を奪われ、他国へ追われたという。
土屋勝遠は甲斐国守護 武田信昌の娘を娶り、その子 土屋信遠は武田家臣となった。信遠の子、土屋昌遠は駿河国大平郷へ移り住み武田家を離れる。
甲斐土屋氏は甲府盆地西部の西郡を本領とした(南アルプス市徳永。金丸氏居館跡。土塁の一部が現存)。
戦国時代、武田家臣金丸虎義(筑前守)次男 昌続(昌次、右衛門尉)が武田晴信近習として仕えている。

http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1531186258&owner_id=32815602
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●長盛院――金丸氏館跡
金徳山 長盛院
宗派、曹洞宗
開基、金丸伊賀守光信
創建、永正15(1518)年

高台に設けられた居館で、まさしく城がごとき砦のような。



甲斐国巡回マップ
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1VY8nmTna0GP6H1hoaMPR0a1JsgU

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