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越ヶ谷御殿跡(埼玉県)

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写真: 越ヶ谷御殿跡(埼玉県)

写真: 越ヶ谷御殿跡(埼玉県) 写真: 照蓮院(越谷市)

mixi記事コピペ――
「越谷3/旧日光道・御殿・宿場・伝馬制度/」
2010年10月28日 23:50
●伝馬制度は、古くは律令制の駅馬や伝馬の制度に始まるもので、戦国大名では小田原の北条、駿河の今川、甲斐の武田、越後の上杉などがこの伝馬制度を採用していた。また、豊臣秀吉も全国統一後は伝馬制を広く利用し、公用の旅行者や物資の輸送に当該地の人馬を無賃あるいは有償で徴用していた。

伝馬の特徴は、人や荷物を運ぶ人馬を宿継ぎで交代させながら輸送させるリレー方式にあり、道中2里か3里ごとに宿駅を設置する必要があった。
奥州道の伝馬制は慶長7年頃、宇都宮宿に対する地子免除や、岩槻城主高力清長による粕壁新宿取立ての文書から、この頃設定されたものと考えられる。
近世に新たに成立した宿場は、いずれも街道に面して直角に屋敷割がなされており、人工的な区画整理は、古くからの自然集落でないことが明らかだ。およそ関東の宿場の大半は、近世に入って幕府の要請で造成されている。

江戸方面から野州・上州さらには奥州に通じる道は、一つは、千住・八条・大相模を経て瓦曽根の荒川堤防上を進み、六本木から観音横町を通って越ヶ谷の中町に出る道が挙げられる。さらに中町から本町を通り、再び荒川堤防上を四町野・荻島・野島・末田を通って台地上の岩槻に抜ける道。これは奥州道の一古道。
また、越ヶ谷から荒川を渡り、大沢・間久里を経て粕壁・幸手への道路──新しい奥州道として開発された年代は明確になっていない──が、岩槻城主高力清長による粕壁新宿取立ての文書が出されているので、この頃から奥州道として整備されたものと推測されている。
千住からまっすぐ草加を経て越ヶ谷に至る新道の開発は、宿篠葉村(現草加市)の豪士大川図書が、慶長年間に村民とともに建設をすすめ、そして寛永7(1630)年、越ヶ谷・千住間が4里と遠距離のため、草加が両間宿の中間宿に指定された。
その後、奥州道中は寛永13年の日光東照宮造営以来、東照宮参拝が制度化され、これが年中行事になるにおよんで、千住・草加・越ヶ谷・粕壁・杉戸・幸手・栗橋中田(合宿)・古河・野木・間々田・小山・新田・小金井・石橋・雀宮・宇都宮・上中下徳次郎(合宿)・大沢・今市・鉢石の20宿間を通称日光道中と称し、白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂・白河の10ヶ宿を奥州道中と称するように。
(江戸・岩淵・川口・鳩ケ谷・大門・岩槻が日光御成道)


●家康は関東に封じられた頃、新領国の防衛体制を固める為、周辺諸大名の動向探知、関東の地形熟知を目的に、頻繁に各地を鷹狩り名目で巡察した。自らの巡察は、在地土豪層の掌握と家臣団の統制を目的としていて、何より領内民心の把握を重視したもの。
当地の巡察に利用した休泊所は、岩槻、川越、忍などの家臣を配した城廓だったが、先々で在地の寺社や有力者の邸宅を臨時に使用。地方巡察が度重なるにしたがい、特定の休憩所や宿泊所が所々に設けられ、これを御殿、御茶屋などと呼ぶようになっていった。
当初の御殿、御茶屋は街道筋の要所に位置され、軍事的機能および行政監察機能をもつ拠点だった。その規模や構造は大小があったようだが。
街道筋の主な御殿は、
東海道筋――高輪御殿・品川御殿・六郷八幡塚御殿、
中仙道筋――蕨御殿・浦和御殿・鴻巣御殿、
奥州道筋――千住御殿・小菅御殿・越ヶ谷御殿――等々。

すべてが、必ずしも敵の侵攻または農民の一揆などに備えていたかと言うと、それぞれの御殿建立の年代が明確じゃないためはっきりできないが。軍事的拠点として明確な御殿が、古利根川の畔、葛飾郡大川戸村に残っているそうだ。→陣屋御殿。
そこも関ヶ原合戦終了で利用価値を消失し、その後利用されないまま伊奈忠次の家臣杉浦五郎右衛門定政に下賜…。
慶長9(1604)年将軍家康は、埼玉郡増村に設置してあった御茶屋御殿を、越ヶ谷の東裏耕地(現在の御殿町)へ移設。
建立時期も場所も明確ではないが、一説に、古利根川沿いにある浄土宗林泉寺の周辺が御茶屋御殿だったのではとのこと。
荒川の自然堤防、地続きに浄土宗天嶽寺、郷社久伊豆神社をひかえ、地形状からも当時の越ヶ谷郷の中心。しかも周囲は大きな勢力を持った会田氏の本拠地であり奥羽道の要衛であったので、この地へ御殿を移したのは民政上当然であったと考えられる。

家康、秀忠、家光が来遊したと記録がある。
明暦3(1657)年1月、振袖火事と称された江戸の大火に江戸城は全焼。この時幕府は、江戸城二の丸に越ヶ谷御殿を移して仮殿とすることを決め、万治2(1659)年の本丸造営までの将軍居所として利用。
越ヶ谷御殿跡地は元禄8(1695)年の検地で、4畝26歩の御林跡が御殿地の由緒により除地として残された以外、すべて畑地に開発され、年貢地に。

(史料諸々、方々HP、参照 m(_ _)m)


埼玉巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1n7FXl59z93Omd64JgBAzU4whzdY&usp=sharing

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