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11.03.24.本所回向院(両国回向院。墨田区)

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写真: 11.03.24.本所回向院(両国回向院。墨田区)

写真: 本所回向院(両国回向院。墨田区)国技館(大鉄傘)跡 写真: 11.03.24.吉良上野介上屋敷跡(墨田区両国3丁目)

mixiアルバム「本所回向院 (両国2丁目) ・本所/鼠小僧次郎吉」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000050708916&owner_id=32815602
2012年02月17日 00:19

11.03.24.
※地図?
●回向院――
諸宗山無縁寺回向院。
寺院山門には諸宗山回向院とある。
南千住回向院に対し、本所回向院とも。
本尊は阿弥陀如来。
境内には、観音堂や鎮守堂、太師堂などが建立され、数多くの尊像が安置されていたが、関東大震災はじめ震災・戦災により木彫の諸尊像はことごとく焼失、石仏、銅仏等の諸尊像のみが残されている。
振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火(明暦3(1657)年)の焼死者10万8千人を幕命(将軍家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者、刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、ペットの墓も多数ある。
著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など。
参拝客のために両国橋が架けられた(寺曰く)。

天明元(1781)年以降、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、明治42(1909)年旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。昭和11(1936)年1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。
(境内で初めて行われたのは明和5(1768)年。天保4(1833)年より春秋2回の興行の定場所となる。)


●本所――
東京都墨田区本所。
江戸時代は、深川と並んで拡大する大都市江戸の新興居住区域の一翼だった。本所の宅地化が進んだのは元禄年間で、当時は町外れの辺鄙な土地だった。
当時本所に住んでいた有名な人物と言えば吉良義央だが、彼も「江戸の外れに追い出された」といった愚痴を綴った私信を残している。
幕末には江川太郎左衛門の屋敷が置かれた。
明治時代、この本所から名をとった本所区が設置される。現在の墨田区の南半分にあたる。
工場立地の良さから、明治時代は工業地帯化が進む。
大正12 (1923)年、関東大震災では本所を含む本所区の9割が焼失、約4万8千人もの死者を出した。また東京大空襲でも甚大な被害を受けている。
昭和22 (1947)年、向島区と合併して現在の墨田区になった。

地名の由来は、アメブロ「荘園2/本所」→ http://ameblo.jp/emeth-spriggan/entry-11193458508.html

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